St Martin de Mieux (サン・マルタン・ド・ミュー)

1サンマルタンLa Chapelle des Pommiers

12. St Martin de Mieux (サン・マルタン・ド・ミュー)
パリから西北に200km余り、ノルマンディー地方の人口400人ほどの小さな村サン・マルタン・ド・ミューのはずれに16世紀創建のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂(La Chapelle St Vigor de Mieux)があります。今ではLa Chapelle des Pommiers(林檎の礼拝堂)として知られています。
司祭の去った1828年以降は使用されずにありましたが1987年ここを訪れた前衛作家田窪恭治は『即座にこの礼拝堂を素材として作品化する』決心をします。(以下も田窪恭治著【林檎の礼拝堂】からの引用)その理由として彼は『自己表現の方法としての展覧会主義とでもいうようなやり方に限界を感じていました。』『この小さな礼拝堂が地元の人々によって愛され、維持され続けている姿を見たとき、…生き続ける作品とは、…人々の手によってさらに命を吹き込まれていくものであるという、人と文化の基本的な関係をあらためて認識させられたのです。』と述べています。

桔梗の花の鐘楼は田窪のデザイン

ここからが彼の10年に渡る『フランスの田舎町での筋書きのないドラマの始まり』となります。子供らを連れての家族全員でのフランス移住、村民の不信・理解、資金の確保、資材の入手、地元工芸家の協力、ノルマンディー独特の天候との格闘『湿気の多いこの地方は、中途半端な方法で漆喰壁に直接描くとすぐにカビが生え、発色が悪くなるばかりか、長い間には壁自体が腐ってしまう心配があります。またマイナス20度にもなる冬の厳しい寒さでは、壁の中にたまった水分が氷となって壁にひび割れを生じさせてしまいます。』このような状況下で試行錯誤の後に考え出した削り出しによる独創的な描法…『壁面に薄い鉛の板を張り…鉛の上に接着剤で顔料を塗り重ね、色の層が7、8色になったところで表面を黒鉛で処理し、その上から彫刻刀で、鉛もろとも削るように絵を描くというものです。「描く」というよりは「刻む」といった感じでしょうか。』

田窪が出会った当時の礼拝堂 修復にあたり田窪はマティスやコルビュジェの礼拝堂を訪れ示唆を受けたとしている 礼拝堂の入り口いちいの大樹が覗いている 床には耐候性の高い特殊鋼材3ミリ厚のコルテン鋼を35トン敷き詰めてある 大きな船底のような屋根の構造は変えずに新しいガラス瓦が並べられていった。 壁面には鉛板を張ってある 林檎の花 白い壁を削ると、色の層が顔を出す。色の層を削るという、独創的な技法 鉛の上に接着剤で顔料を塗り重ね、彫刻刀で鉛もろとも削るように絵を刻む 
再生なった礼拝堂の屋根 地元のガラスアーティスト製造の青、赤、黄、紫、緑など12色のガラス瓦 差し込む光の角度や見る者の位置によって表情が変わる ガラス色瓦屋根 ガラス色瓦 「3人の息子には私の妻がフランス語を教えたのさ」 

メモランダム:1066年イングランドを征服したノルマンディー公ウイリアムの生誕の地ファレーズの観光案内所で教わり、車で10分程西に走ると緑一面の麦畑の中に小さな白い案内板があり、指示通り麦畑の中の細い道を2~3分走ると突然桔梗の花の形をした鐘楼をいただく礼拝堂の前に出ました。礼拝堂は閉まっていましたが、扉に書かれていた内覧希望者用の電話番号に電話をし、昼食後戻ると初老の男性が扉の鍵を開け中に入れてくれました。堂内は祭壇を除きすべての壁面に林檎の木の絵が描かれています。白漆喰壁に絵具で描いたのかと思いましたが何か風合いが違います。説明を受け近づくとやっと彫刻刀で削って描いた絵だとわかります。しかも春・夏・秋・冬四季の林檎の木を描き(削り)分けています。こんな描き方があるのか!が最初の感想です。説明なしでは決してわからないでしょう。また林檎を描いているのに軽やかな、華やかな感じがしません。削り出されるのが顔料だからか日本画を見ているようなどこか落ち着いた深みのある絵となっています。手造りの彫刻刀でイメージに合う色がでるまで削り進むこの行為を田窪は『それは、何か遠い記憶を、探し出そうとしているようにも思える』と書いています。帰りがけにお礼を述べ、拝観料を支払うと彼は「田窪の3人の息子には私の妻がフランス語を教えたのだ」と誇らしげに、嬉しそうに話してくれました。村人に愛されている礼拝堂なのだなと思いました。

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