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Reims (ランス)
14.Reims (ランス)
パリから東北東に140kmシャンパーニュ地方・マルヌ県のランス(Reims)は県下最大の人口18万人を擁しますが県庁所在地ではありません。県庁は人口4.5万人のシャロン・アン・シャンパーニュ(Châlons-en-Champagne)です。
その理由はガリア時代のレミ族(Remi)に由来する名前を持つランス(Reims)はフランス歴代の王たちに先鞭をつけた498年のフランク王国初代王クロヴィス1世の聖別戴冠式を行ったノートルダム大聖堂やその聖別を授けた司教サン・レミにゆかりのサン・レミバジリカ聖堂があり古くから「戴冠の都市」とか「王達の都市」と呼ばれ、その宗教色、王室色をフランス革命当時の革命政府が嫌ったためとされています。
この歴代フランス王が戴冠式を行った由緒正しいノートルダム大聖堂で洗礼を受けた日本人がいます。乳白色の画家藤田嗣治(ふじた つぐはる)です。正確には1959年73歳で洗礼を受けた時にはすでにフランス国籍を取得し帰化していたのでフランス人レオナール・フジタです。このフジタが死の直前病の体で正に生命を懸けて制作したノートル・ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母)礼拝堂(シャペル・フジタ)が大聖堂から1㎞ほど離れたシャンパン醸造会社の工場や倉庫が立ち並ぶ一画にあります。80歳になったフジタが礼拝堂を建てたいと願ったとき協力を申し出たシャンパン醸造会社G.H.Mumm(マム)社の本社に隣接した敷地にひっそりと佇んでいます。フジタが設計したロマネスク風の白い石造りの瀟洒な礼拝堂の内部はフジタが描いた聖母子像、受胎告知、東方三博士の礼拝、キリストの磔刑などのフレスコ壁画で埋め尽くされています。受付の女性の話では1966年2月に建設開始された礼拝堂は6月初めに完成し、フジタは6月3日からフレスコ画の制作に取り掛かります。フレスコ技法は80歳にしてフジタが初めて用いる技法で寸暇を惜しむため隣接するマム社に寝泊まりし、朝から夜遅くまで制作に没頭したようです。およそ3か月後の8月31日祭壇右横にレオナール・フジタ80歳とサインを入れ完成させますが12月にはパリの病院に、その後はチューリッヒの病院にと入退院し1968年1月死去しています。礼拝堂前の説明板に書かれているとおりシャペル・フジタは正にフジタの遺作となりました。
メモランダム:礼拝堂入り口を入ると受付嬢がランス美術館との共通割引券は如何と尋ね、特に今はフジタの特別展示をしているとのことで迷いなく共通券を購入しました。礼拝堂は入った瞬間からフジタが迫ってきます。内部の壁面は前も後ろも右も左も全てフジタのフレスコ画とステンドグラス。下地の漆喰が乾く前に絵具で描画していくフレスコ画は原則修正や加筆はできないため素早く確実にモチーフを描く卓越した技術が求められるそうです。なぜ80歳になり初めてのフレスコ画に向ったのか?なぜあれだけ名声を博した『乳白色の下地』を使わなかったのか?など疑問が出ますが病を患っていたフジタが短期間で完成させたかったからともまた、聖母の前では時代の寵児であった自分ではなく一人の絵描きで居たかったからかとも思いました。ただし全身全霊を捧げた作品であることには間違いありません。圧巻です。
幾つかの彼の言葉があります。
・第二次世界大戦勃発直後パリから帰国した当時の気持ちでしょうか。
「…私の体は日本で成長し、私の絵はフランスで成長した。…私は、世界に日本人としていきたいと願うそれはまた世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う。」
『随筆集 地を泳ぐ』(1942年56歳)
・戦争画の時代、軍医の最高職陸軍軍医総監を父として持つ運命を感じていたのでしょうか。
「私は…先頭に立って若い者を引っぱらねばならぬことになりました。…私は喜んで、
部隊長でやりましょう。」『木村荘八宛て書簡』(1943年8月57歳)
・医者にしたかった親に背き絵描きとなった自分への言葉でしょうか。
「足場の上で私は自分の80年を贖(アガナ)うよ。私の神は私に力を与えてくれる…、
終わった…、だが人生は美しいんだ。」(礼拝堂の建築家モーリス・クロジェに語った言葉)(80歳)
夫妻の墓所につき尋ねると受付嬢は「今(2019)はここにフジタ夫妻はいません。隣の敷地に埋葬されています。」と教えてくれた。
有難うと応えると「いつか日本に行きたいと思っています。」と返事があった。