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Montagne Ste-Victoire (サント・ヴィクトワール山)
10.Montagne Ste-Victoire (サント ヴィクトワール山)
南仏コートダジュール、ニースからマルセイユへの高速道路8号線を走りエクサン・プロヴァンス(エックス)に近づくと右手側に日本では見かけない白い岩肌の馬の背状の山が見えてきます。これが石灰岩でできた18kmにも及ぶ標高1011mのサント・ヴィクトワール山です。聖なる勝利の山とは紀元前102年シーザーの伯父にもあたるローマの将軍ガイウス・マリウスが南下する蛮族(ゲルマン人)をこの地で打ち破り共和制ローマを護ったことによるそうです。
一方この岩山を描き続けたポール・セザンヌは1839年エックスで生まれ、銀行家の父親の法律家にさせたいとの希望に背き、22歳で画家になるべくパリに出ます。しかし国立美術学校の受験に失敗し入った絵画アカデミーではピサロ、ルノワール、モネ、シスレー等の画家仲間と知り合いますが結局、絵のテーマとなるモチーフが見つからず故郷に戻ります。その後30歳の時絵のモデルをしていた19歳のオルタンス・フィケ(Hortence Fiquet)と知り合い同棲を始めます。住居もマルセイユやパリ近郊など移り住み、印象派の仲間と活動を共にしたりしますが、官展には落選し続けます。そんな彼がエックスとマルセイユを結ぶ鉄道が開通した半年後の1878年4月、親友エミール・ゾラに送った手紙の中で『アルク川渓谷に掛かる鉄道橋を渡る汽車の窓から眺めたサント・ヴィクトワール山はなんと素晴らしいのだろう。モチーフになるよ。』と書いています。そしてその年から彼はこの山を描き始め油彩・水彩計80点近く描くことになります。
探し求めていた絵のモチーフは幼い日、ゾラとその麓を探検して歩いたサント・ヴィクトワール山にあったようです。
1989年山火事で南面の多くが焼失しその後再生に努めていますが針葉樹が多く元のようにはならないそうです。エックスの市民に愛されているこの山には多くのハイキングコースがありハイカーやキャンパー、ハンググライダー乗りなど年間70万人にもなる人々が集っています。
メモランダム:セザンヌは度々キャンバスなどの画材を背負いサント・ヴィクトワール山の麓まで写生に出かけています。ある時は父の別荘から、ある時は町のアパートからまた晩年はアトリエから。この道は現在『セザンヌの道』と呼ばれています。荷馬車に乗せてもらい途中の村まで行きそこから石切り場やシャトー・ヌワールなど好きな場所に歩いて行ったようです。
この道を歩きだした頃のセザンヌは経済的にもかなり困窮していました。オルタンスとは父親が亡くなる1886年まで16年間内縁関係で、母親や妹たちとも決して良い関係ではありませんでした。題材・色彩など批判される彼の絵を擁護する批評を書いてくれたゾラはすでに小説家として成功(居酒屋'76、ナナ'79年)を収めていました。この赤土の道をどのような気持ちで歩いたのでしょう? 幼い日から見慣れていたこの「勝利の山」の何が創作意欲を鼓舞したのでしょう?
『セザンヌの道』を山麓まで行くと「サント・ヴィクトワール山の家」なる案内・休憩所があり人々の憩いの場となっています。広い駐車場に続く草原では山羊が草を食んでます。見上げるとちょうどプロヴァンスの十字架が真上辺りにあります。十字架の背景はプロヴァンスの青い空。地中海からの風に吹かれるのか白い雲が5分と同じ形をしていません。いつまで見ていても飽きませんでした。