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ミディ運河クルーズの参考に、フランス南西部のセートからカルカッソンヌまでの映像を用意しました。パート1(:21:12)と パート2(21:10)となっていますがミディ運河の主要な町が網羅されています。日本語要約も付けました。ご覧ください。

ミディ運河(Canal du Midi)

古い昔より人々は地中海と大西洋を繋ぐ道を夢見てきました。ローマ時代の人はまず街道によるその実現を図り、その痕跡は今も大地に残ります。
皇帝オーギュストからルイ13世に至るまで、水路による地中海と大西洋を繋ぐ夢は膨らみます。ローマ時代には、まずローマ水道でスペインからイタリーまで繋がりました。ルイ14世の時代にようやく、いまやユネスコ世界遺産にも認定されている美しいミディ運河が建設されました。その後ガロンヌ川沿い運河が建設され、とうとう地中海と大西洋がセートからボルドーまで450kmで繋がることとなったのです。
この運河により、人々はもはや地中海からイベリア半島を大回りしてガスコーニュ湾に至る、海賊の出没する長く危険なルートを航海しなくてもよくなりました。
また追いはぎに襲われる危険な街道ルートも使わずにすみます。
その上、船による輸送はとても割が良いのです。ご存知ですか? 馬は通常自分の体重の2倍の荷しか運ぶことができませんが、曳船を曳くのであれば体重の120倍の重量まで曳くことができるのです。
さて、中央山塊のピレネー山脈の高度190m地点が分水嶺です。貧しく水も不足しがちなこの地方で絶えず運河に水を供給しなければなりません。この難問を解決するのは天才ポール・リケです。
リケは1667年から1681までの14年の歳月をかけて15,000人の工夫を使いロイヤル運河(現在のミディ運河)を掘削しました。
240kmに64箇所のロック(閘門)と130箇所の橋を含む350箇所の運河建造物を作り上げました。このミディ運河とガロンヌ運河により地中海と大西洋は繋がりました。
我々はセートからトゥールーズまでミディ運河、トゥルーズからボルドーまでガロンヌ運河、そしてミディ運河からそれて詩的情緒に満ちたバイーズ川へ、更に魅力溢れるロット川をクルーズしました。
最初ラングドック語でロイヤル運河と呼ばれていたこの運河は、革命政府により1789年ミディ運河と呼ばれるようになりました。今日では、この運河建設は17世紀最大の建設事業だったと考えられています。この運河が建設されて、小麦粉やワイン樽をフレッシュのまま安全にセート港やボルドー港に運ぶことができるようになったのです。
こうしてフランス南西部には汽車と船の輸送による経済的繁栄がもたらされました。この繁栄はポール・リケの才能に因るところ大でした。ポール・リケは1609年に生まれ1680年に運河の完成に先立つこと1年、71歳で亡くなりました。
若い頃はフランス語(ラングドール語)よりラングドック語を好み、科学と数学を学びました。ラングドック語はフランス南西部の心、アイデンティティーの象徴です。リケは塩税の徴収官吏となり、すぐに財を成しましたが、驚くべきイマジネーションと偉大なビジネスセンスの持ち主であった彼は、やがてその職に飽き足らなくなりました。
ここはボンルポ男爵(ポール・リケ)の城です。60ヘクタールの樫の林、150ヘクタールの森に囲まれています。
この城のテラスで彼は建設プランを練りました。これはロイヤル運河の設計図ですが、17世紀のものです。この設計図の楕円形ロックは、水の節約に有効だと考えられました。
そして運河の建設が始まりました。彼は日曜祭日を休みとし、病欠を認め、高賃金を保証し、良い労働条件の元、労働者を保護しました。そのためリケは自分の財産を使い果たしました。

セート(Sete)(7:00):
セートです。ここはラングドックのベニスと呼ばれています。
ここはポール・リケが造った地中海の港です。
またここは偉大なる詩人ジョルジュ・ブラッサンスが生まれ育ち、眠る地です。ブラッサンスに捧げられたミュージアムは、岬の突端近くの彼の眠る墓のすぐ脇に作られています。

トー湖(Etang de Thau)(8:25):
セートを出るとまずトー湖を横切ります。ボルドーは450kmの彼方です。ここからミディ運河の冒険が始まります。

アグド(Agde)(9:13):
ここのレンタルボートのベースで自転車を借りて船に載せてゆけば、あちらこちらを観光するのに便利です。
ミディ運河の始まりはこのロック、天才リケの作ったロックをまっすぐ行けばセート方向、右に曲がればアグドに至ります。
アグドが地中海の黒真珠と呼ばれるのは、黒い山(Montagne Noir)からきた人々の建てたこのモニュメントの故です。
紀元前16世紀より続くこの町は歴史のゆっくりした歩みを思わせます。
17世紀末にミディ運河が開かれて、この地の人々は水運業と漁業で暮らします。やがてここは地中海の大マリーナとなり、フランスで最初の観光地となり、その評判はヨーロッパ中に広まりました。
天気がよくても悪くてもこの運河は人々を魅了し続け、みなこの運河のクルーズを楽しみます。

ベジエ(Beziers)(12:06):
ベジエに到着しました。カタール戦役の交差点、ラングドックの首都です。
ワインの良い香りが漂っています。ベジエは世界でも有名なワイン葡萄の産地です。
ミディ運河建設の父、リケの見つめるベジエの町は2700年の古い歴史を誇ります。レストランアンバサダーL’Ambassadeのシェフ パトリック・オレリーの供する料理は新鮮素材を使った芸術作品のような料理です。
美しい野菜が並んでいるさまをご覧下さい。素晴らしいですね。いずれもこの地で採れた新鮮野菜です。
さて食事の最後にショコラのデザートとこの地のワインを楽しんだ後は、運河クルーズに戻り、運河橋を渡ります
運河橋はその名の通り川に架けられた橋の上を船が渡ります。リケはこの運河に幾つかの運河橋を造りました。
この辺りも素晴らしい景色です。
この辺りの光景は長く記憶に残ることでしょう。
運河橋を過ぎると、曳船道を走っているランナーを見かけました。
やがてフォンセランの階段ロックにやってきました。

ベジエ近くのこのフォンセランの階段ロックはミディ運河の名所です。8つの楕円形のため池(閘区)と9つの扉を持つこのロックを通ることにより、わずか300mの距離で高低差21.5mを上り下りします。当時の技術の高さが感じられますね。
ロックの中で水が流れ落ちる様はいつ見ても印象深いものです。
運河の船は平底なので、ロック内でも操船がたやすくなっています。
操船者とロープを取るものと、二人の協力が欠かせません。
この男性は金婚式のお祝いにご夫婦でミディ運河をクルーズしています。
水が入ってくる様子です。スゴイですね。
我々は1時間半でのフォンセランのロック超えに成功しました。とても満足しています。右手に古びた郵便船Barque de Postが見えてきました。昔、ここを航行する船の乗客の手紙や小包を港々に届けた郵便船に思いを馳せました。
郵便船はアグドとトゥールーズ間を往復し、トゥールーズから4日目にここフォンセランに到着しました。

コロンビエ(Colombiers)(18:06):
旅の醍醐味は出会いにあります。コロンビエで出会ったこの古いステキなペニッシュに招待されました。イタリー人の家族でした。イタリー人は人生を楽しむすべをご存知です。エレナは料理のスペシャリスト、そしてマレシャル・フェランはイタリアンコーヒーの伝道師です。
『エスプレッソ用のコーヒーポットは決して洗ってはいけません。
コーヒー豆は挽き加減を変えた3種類を混ぜます。ちょうどの加減はその日の湿度により変わるので3種類を混ぜるのです。
粉をしっかりプレスしたら、4箇所に楊枝で穴を開けます。がっちりプレスした粉から蒸気があがりやすいように穴を開けるのです。
最初はふたを開いたまま強火にかけます。コーヒーがあがってきたらふたを閉め、火をできるだけ弱めます。』
『これはイタリーのエクストラバージンオイルです。調理するときではなく火を止めてからふりかけてください。』

コロンビエはワイン樽の港として長い歴史があります。コロンビエの港を出るとアンセランの丘Colline d’Enserune があります。丘から眺めるとベジエからナルボンヌにかけての景観が開けています。特筆すべきはモンタディの池です。430ヘクタールの窪地に放射線状に灌漑用の溝が切ってある灌漑池で、他所には類を見ない眺めです。
マルパストンネルは170mあります。ここの砂地は崩れ安いので、最初トンネル掘削は無理だと思われていました。多くの工夫が命を落とし、王家が工事中止を命じますがリケは工事の継続を強行し、新しい左官の技術を用いて日夜分かたず工事を進め、王家の検視官 がやってくる前に工事を終わらせました。
運河のためのみに掘られたトンネルとしては、このマルパストンネルが史上初でした。

ミディ運河はソマイユの手前でロビン運河と直角に交わっています。ロビン運河に入り32km先のナルボンヌを目指します。
オード川を渡ります。ロビン運河のロックは無人ですがオートマティック方式になっています。橋のアーチが低いので気を付け通らなければ・・・おっと、カメラが、、、
ここはミネルヴァワインの葡萄耕地の中心部です。

ナルボンヌ(Narbonne)(3:16):
紀元前1世紀の町です。
ここは今流れているラ・メールで有名なシャルル・トレネの生まれ故郷です。トレネの青春賛歌、幸せと生きる喜びを歌った数々の歌。
ここは彼が少年時代にすごした家です。
ナルボンヌには今世紀始めの美しい建築が残されています。
灰がかかったチーズがここの名産品です。

ソマイユ(Somail)(4:50):
居眠り(ソメイユ)のごとく昔ながらの風情のこの町は、郵便船が泊まる港でした。
桟橋には宿泊と食事と遊覧クルーズ込みのペニッシュ・ホテルが碇泊しています。
この本屋はソマイユの町の宝です。

運河は野菜畑や森を抜けて行きます。
リケは大切な運河の水がどんどん蒸発してしまわないように、両岸に木を植えました。

オンプ(Homps)(6:54):
ミネルヴァワインをボルドーやトゥールーズ、或いはセートに運ぶための港としてオンプは栄えました。
ここはオンプの有名なケベック料理のレストラン ラ・ペニッシュです。ピザも美味しいですがなんといってもタルタルステーキがお勧めです。エシャロットやにんにくその他の香味野菜を混ぜ、塩コショウで味を調え、タルタルステーキに絡める秘伝のレシピ。マダムの幸せそうな笑顔。

プイシェリック(Puicheric)(9:30):
ミディ運河の中でも最も印象に残るロックに到着です。エイギュイルロックでは、ロックキーパーのジョエル・バルト創作の人形たちの世界がユーモアたっぷりに迎えてくれます。

ミネルヴ(Minerve)(11:08):
ミネルヴァ地方の中心、ここミネルヴ村はフランスで最も美しい村の一つです。その歴史は1210年中世カタール時代まで遡ります。崖の上に建つ石造りの美しい村です。

カルカッソンヌ(Carcassonne)(12:55):
中世の城壁の町カルカッソンヌは、もうひとつのユネスコ世界遺産です。
黒い山(Montagne Noir)のふもとの谷間、背後にはピレネー山脈の樫の森が広がっています。
カルカッソンヌは中世にアルビジョア十字軍によりカタリ派が迫害された歴史の地です。この地カタールではカトリックの教会の名の下、多くのカタリ派信者が拷問を受け、苦しみながら死を迎えました。
ベジエで兵士にどうやってカトリック信者とカタリ派を見分けるのかと問われた教皇の使節は、『全員皆殺しに!神は敬虔なる信者を見分けられる(死後にカトリック信者は神の祝福を受けることができる)ので皆殺しせよ』と答えました。
十字軍はついにモン・セギュールの山頂にカタリ派信者を追い詰め皆殺しにしました。
ベジエだけでも15,000から22,000名ものカタリ派信者が虐殺されました。
アルビジョア十字軍遠征はベジエ及びフランス南西部に残る悲惨な歴史ドラマです。

日曜日になれば、カルカッソンヌの運河岸ではのんびり糸をたれる太公望の姿が見られます。日曜大工で船の修理にいそしむ姿も。
御覧なさい、これは船に古いシトロエンを乗せています。
恋人たちの姿。古いペニッシュには読書にいそしむおばあちゃんの姿も。